花の命は短くて
濵田穣は濵田二郎を殺した。

1986年
大学を卒業する際に濵田穣に相談に行った。

このままだと潰れるから社員は取らないと言った。

その言葉で俺は最初に死んだ。

4月入社すると
営業部    浜田    二郎
の名刺を渡された。

ノートの表紙が描きたかった。
2度目の死

1990年
濱田    純一が社長に就任

濵田穣は社長夫妻に土下座をして頼まれたと言った。
3度目の死

そして、
1998年
断らざるを得ない状況で社長として登記され翌日に断る。

4度目の死

2002年
役員降格

5度目の死

この後も降格・転籍・転籍・転職の生き地獄
何度もの死を経てまだ、地獄の真っ只中である。

濱田巌は濵田順平を騙した。
穣と共に濵田家の墓を建て
息子の名前を命名させ
社長の座を2代目に譲らなかった。

今、セイカノート株式会社はない。

残ったのは濵田二郎と言う人

まだ、生きているがここまで長くあっという間の人生だった。

小学生の頃からプロ野球に憧れていた。

中学を卒業して直ぐに働きたかった。

濱田純一がセイカノート株式会社に入ると聞いたからだ。

母はこれからは四年制の大学を卒業していないと他人は使えないと言った。

しかし、俺にはセイカノート株式会社に沢山の仲間がいると思っていた。

セイカノート株式会社の跡取りなのだからと大学まで行った。

プロ野球の夢は消えた。

自分で消したのだ。

セイカノート株式会社に行く為に消したのだ。

夢を忘れよう。

その為に少しでも早く経験を積んで少しでも早く社長になりたいと思った。

何度も何度も父にこんなに社内で人望が有るのに何故父は社長にならないのかと聞いた。

人望は金を握っているからだったのか。

でも、父が社長になれば直ぐに順番が回ってくると思った。

父は死ぬまで息子の助言を聞かなかった。

大勢の社員に誘われるままに色々な事を学んだ。

野球・テニス・スキー・ゴルフ・ボーリング・ダーツ・ベース・酒・恋愛

人より早く卒業した。

会社で育つとそんなもんだ。

彼女も同じだろう。

親の職場を目の当たりにして育つと何でも解った。

解った気にならされただけかもしれない。

礼節も学んだ。

相手の雰囲気でこの人はどう接するべきかが解った。

それだけが大きな財産

58+22=80

丁度良い数字だ。

セイカノート株式会社は無くても

きっと良い事がある。

彼女の分も生きよう。

まず、20年( ´∀`)

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